ところが、本多は執働に私を攻撃し続け、議論するうちに辻棲が合わなくなって、それでも今なお、「石原が歴史をまげた」などとほざいています。もう20年以上も前のことですが、私は日本軍が南京で30万人も40万人も殺したといういわれについて公開の場で問いたくて、朝日新聞の「論壇」に原稿の掲載を申し入れたことがありました。
ところが、「協議の結果、この時期にこの問題について石原の意見は載せられない」という返事がきました。朝日には、彼らの政治的な目的のために都合が悪い発言は封じ込むという体質が、昔から染み付いている。もうひとつは、私が運輸大臣をやっていた1988年に持ち上がった、石垣島の白保地区の埋め立て問題です。
当時、新石垣空港を建設するために、そこに広がる珊瑚礁の海を埋め立てて空港を造ることが決まっていました。私は石垣島が好きでよぐダイビングに行っていたので、あんなに美しい珊瑚礁を埋め立てるなんて正気の沙汰ではないと思いました。それ以前に、環境庁長官を務めたこともありましたしね。それで、沖縄開発庁長官だった粕谷茂君と口論になりました。
彼にすれば、すでに決まっている空港建設を、所轄官庁のトップである私がひっくり返すような発言をしたのだから、困ったと思います。しかし、私は本心から「あの美しい珊瑚礁を守らなければいけない」と発言したのです。ところが、朝日新聞は私に下手な因縁をつけてきました。沖縄県は白保地区より北方の平野部を空港の代替地として物色し始めたのですが、その近くにはたまたま、私が人を介して購入していた別荘用地がありました。
それを知った朝日は、私が白保案に反対したのは、自分が所有している土地の値段を吊り上げるためだった、と匂わせる記事を書いたのです。濡れ衣もいいところだ。その後、朝日新聞のバカな記者がその白保の美しい珊瑚礁の近くの海で、自分の手で大事な珊瑚に傷を負わせ、その写真をもとに、日本人のモラルの低下を憂うような程造記事を掲載したのは、新石垣空港の騒動直後の89年でした。